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mardi 13 juillet 2010

孫子 地形篇


 「故に戦道必ず勝たば、主、戦う無かれと曰うも、必ず戦いて可なり。戦道勝たざれば、主、
  必ず戦えと曰うも、戦うこと無くして可なり。故に進んで名を求めず、退きて罪を避けず、
  唯人を是れ保ちて、利、主に合う。国の宝なり。」

『それ故、必ず勝ちに至ると言う見通しが立てば、君主が戦うなと言っても必ず戦うのが
 よい。必ず敗北に至るという見通しが立てば、君主が必ず戦えといても戦わない方が
 よい。その結果、将帥は功績をあげても名誉を求めず、退いてもその罪を避けようと
 しない。将軍はただ其の生命を大切に保ち、結果において君主の利と合致するように
 する、こういう将は国の宝である。』

 山本七平 「孫子」の読み方

mercredi 15 juillet 2009

悩みのるつぼ

悩みのるつぼ 6/13 朝日

相談者 男性高校教師 40代

40代の高校教諭。英語を教えて25年になります。自分で言うのも何ですが、学校内で評価され。それなりの管理的立場にもつき、生徒にも人気があります。妻と2人の子供にも恵まれ、まずまずの人生だと思っています。
でも、5年に1度くらい、自分でもコントロールできなくなるくらい没入してしまう女子生徒が出現するんです。

今がそうなんです。相手は17歳の高校2年生で、授業中に自然に振る舞おうとすればするほど、その子の顔をちらちら見てしまいます。

その子には下心を見透かされているようでもあり、私を見る表情が色っぽくてびっくりしたりもします。

自己嫌悪に陥っています。もちろん、自制心はあるし、家庭も大事なので、自分が何か具体的な行動に出ることはないという自信はありますが、自宅でもその子のことばかり考え、落ち着きません。

数年前には、当時好きだった生徒が、卒業後に他県で水商売をしているとのうわさを聞き、ネットで店を探しました。自分にあきれながら、実際にその街まで足を運びましたが、結局店は見つかりませんでした。見つけていたら、きっと会いに行っていたでしょう。

教育者としてダメだと思いますが、情動を抑えられません。どうしたらいいのでしょうか。



回答者 作家 車谷長吉

私は学校を出ると、東京日本橋の広告代理店に勤めた。が、この会社は安月給だったので、どんなに切り詰めても、1日2食しか飯が喰えなかった。

北海道・東北への出張を命じられると、旅費の半分は親から送ってもらえと言われた。仕方がないので、高利貸から金を借りて行っていた。生まれて初めて貧乏を経験した。2年半で辞めた。

次 に勤めたのは総会屋の会社だった。金を大企業から脅し取るのである。高給だったが、2年半で辞めた。30代の8年間は月給2万円で、料理場の下働きをして いた。この間に人の嫁はんに次々に誘われ、姦通事件を3遍起こし、人生とは何か、金とは何か、ということがよくよく分かった。

人は普通、自分が人間に生まれたことを取り返しのつかない不幸だとは思うてません。しかし私は不幸なことだと考えています。あなたの場合、まだ人生が始まっていないのです。

世の多くの人は、自分の生はこの世に誕生した時に始まった、と考えていますが、実はそうではありません。生が破綻した時に、はじめて人生が始まるのです。 従って破綻なく一生を終える人は、せっかく人間に生まれてきながら、人生の本当の味わいを知らずに終わってしまいます。気の毒なことです。

あなたは自分の生が破綻することを恐れていらっしゃるのです。破綻して、職業も名誉も家庭も失ったとき、はじめて人間とは何かということが見えるのです。あ なたは高校の教師だそうですが、好きになった女生徒と出来てしまえば、それでよいのです。そうすると、はじめて人間の生とは何かということが見え、この世 の本当の姿が見えるのです。

せっかく人間に生まれてきながら、人間とは何かということを知らずに、生が終わってしまうのは実に味気ないことです。そういう人間が世の9割です。

私はいま作家としてこの世を生きていますが、人間とは何か、ということが少し分かり掛けたのは、31歳で無一物になった時です。

世の人はみな私のことを阿呆だとあざ笑いました。でも、阿呆ほど気の楽なことはなく、人間とは何か、ということもよく見えるようになりました。

阿呆になることが一番よいのです。あなたは小利口な人です。

lundi 8 juin 2009

Invisible Community


 Although I am a typical loner in daily life, my consciousness of belonging to the invisible community of those who strive for truth, beauty, and justice has preserved me from feeling isolated.

                            - Albert Einstein

lundi 9 mars 2009

Edward Said: Representations of the Intellectual




“I have been unable to live an uncommitted or suspended life. I have not hesitated to declare my affiliation with an extremely unpopular cause.”




『知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、
さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。』 ・・・・ かつて知識人が育んだのは、生まれながらの貴族という考え方であり、 「旧き良き」時代への承継であり、上流階級の高級文化であった。いっぽう わたしが考える知識人は、可能な限り幅広い大衆にうったえかける者であり、 大衆を糾弾するものではない。 
・・・・ インサイダーは特殊な利害に奉仕す
る。だが知識人は、国粋的
民族主義に対して、同業組合的集団思考に対して、階級意識に対して、
白人・
男性優位主義に対して、異議申し立てをする者となるべきである。




ンダによれば、知識人が真の知識人といえるのは、形而上的で高尚な理念に
衝き動かされつつ、公正無私な、真実と正義の原則にのっとって、腐敗を
糾弾し、弱気を助け、欠陥のある抑圧的な権威に挑みかかるときなのだ。


わたしにとってなにより重要な事実は、知識人が、公衆に向けて、あるいは
公衆になり代わって、メッセージとなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、

意見なりを、表象=代弁(represent) し肉付けし明晰に言語化できる能力
にめぐまれた個人であるということだ。このような個人になるにはそれなりの
覚悟がいる。つまり、眉をひそめられそうな問題でも公的な場でとりあげ
なければならないし、正統思想やドグマをうみだすのではなく正統思想やドグマと

対決しなければならないし、政府や企業に容易にまるめこまれたりしない
人間になって、みずからの存在意義を、日頃忘れ去られていたり厄介払い

されている人々や問題を represent することにみいださなければならないのだ。
知識人は、こうしたことを普遍性の原則にのっとっておこなう。ここでいう
普遍性の原則とは、以下のことをいう。あらゆる人間は、自由や公正に
関して世俗権力や国家から適正なふるまいを要求できる権利を持つこと。
そして意図的であれ、不注意であれ、こうしたふるまいの規準が無視される
ならば、そのような審判行為には断固
抗議し、勇気を持って闘わねばならない
ということである。


しかし、かといって、ただ公
的なだけの知識人というものも存在しない。
つねに個人的な曲解があり、私的な感性が存在する。また、聴衆に迎合する
だけの知識人というものは、そもそも存在してはならない。知識人の語ることは、
総じて、聴衆を困惑させたり、聴衆の気持ちを逆なでしたり、さらには不快で
あったりすべきなのだ




わたしが使う意味でいう知識人とは、その根底において、けっして調停者でも
なければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間で
ある。つまり、安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ人間であり、
なかんずく権力の側にある者や伝統の側にある者が語ったり、行ったりしていることを

検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である。
ただたんに受け身のかたちで、だだをこねるのではない。積極的に批判を公的な

場で口にするのである。

いいかえるなら、知識人の使命とは、つねに努力すること、それも、どこまでいっても
きりのない、またいつまでも終わらない努力をつづけるということだ。
けれども、知識人の使命にまつわるこうした奮闘努力と複雑さは、たとえ、使命を
まっとうしたからといって、とりわけ人から好かれる人物になることはないにしても、
少なくとも私にとっては、知識人の使命をいっそう豊かなものにしてくれる要因なので
ある。


アマチュアリズムとは、文字どおりの意味を言えば、利益とか利害に、もしくは
狭量な専門的観点にしば
られることなく、憂慮とか愛着によって動機付けられる
活動のことである。  現代の知識人はアマチュアたるべきである。




dimanche 25 janvier 2009

山本七平 『人望の研究』

七情・・・ 喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲

九徳 (『近思録』『尚書』)

一 寛にして栗 (寛大だがしまりがある)
二 柔にして立 (柔和だが、事が処理できる)
三 原にして恭 (まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
四 乱にして敬 (事を治める能力があるが、慎み深い)
五 擾にして毅 (おとなしいが、内が強い)
六 直にして温 (正直・率直だが温和)
七 簡にして廉 (大まかだがしっかりしている)
八 剛にして塞 (剛健だが、内も充実)
九 彊にして義 (剛勇だが、義しい)


『ベン・シラ』

 「あなたの足を知恵の足枷にはめ、あなたの首を首枷に入れよ。知恵の荷を
  負うために背をかがめ、その束縛をいやがるな。あなたの魂をあげて
  知恵に近づき、力を尽くしてその道を歩け。知恵の跡につづき、それを追い求めよ。
  そうすれば知恵が貴方の前に姿を現わすだろう。いったんそれをつかめば二度と
  離すな。最後には、知恵に休息を見いだし、それがあなたの喜びとなるのだ。」

vendredi 5 décembre 2008

加藤周一死去

羊の歌や日本文学史序説には感銘を受けているけれども、小林秀雄や吉田健一の様に青春時代に大きな衝撃を受けた様な作家ではない。むしろ、加藤周一という名前自体が教養という言葉と同義の様になっていて、5〜6カ国語を自在に操る語学力、科学、文学、政治に渡る広範な教養に、一つの指標とすべきイメージを常に見ていたと思う。加藤周一を思い、自分の語学力、教養の無さに情けなくなり、多少なりとも奮闘する、という図式があった。こうした知的な刺激を与えてくれる知識人はどんどん少なくなっていく。

御冥福をお祈りします。

http://www.asahi.com/obituaries/update/1206/TKY200812050387.html
http://www.7andy.jp/books/detail/?accd=31564836
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/taguchikosou.htm

dimanche 16 novembre 2008

Quotations of the day

Do not fear mistakes. There are none.

First you imitate, then you innovate.

My future starts when I wake up every morning. Everyday I find something creative to do with my life.

Only through structure comes the greatest freedom . And only through discipline and strenuous effort comes the greatest structure.

-- Miles Davis

Gregariousness is always the refuge of mediocrities, whether they swear by Soloviev or Kant or Marx. Only individuals seek the truth, and they shun those whose sole concern is not the truth.

-- Boris Pasternak

samedi 25 octobre 2008

Weather Underground: Brian Flanagan

"If you think you have the moral high ground --- that's a very dangerous position and you can do some really dreadful things."

mercredi 6 février 2008

Milton


"I cannot praise a fugitive and cloistered virtue, unexercised and unbreathed, that never sallies out and sees her adversary."

dimanche 13 janvier 2008

金子光晴 『絶望の精神史』


『上海も、ロンドンも、ローマも、いまでは、おなじように箱を並べた様な団地住宅が建って、おなじような設計の狭い部屋で、コカコーラと、スパゲッティと、サンドウィッチで暮らす様になる。世界は、似てくる。これをデモクラシーというのであろうか。
  同時に、ばらばらになってゆく個人個人は、そのよそよそしさに耐えられなくなるだろう。そして、彼らは、何か信仰するもの、命令するものをさがすことによって、その孤立の苦しみから逃避しようとする。
  世界的なこの傾向は、やがて、若くしてゆきくれた、日本の十代、二十代をとらえるだろう。そのとき、戦争の苦しみも、戦後の悩みも知らない、また、一度も絶望をした覚えの無い彼らが、はたして何を見つけ出すだろうか。』