lundi 9 mars 2009

Edward Said: Representations of the Intellectual




“I have been unable to live an uncommitted or suspended life. I have not hesitated to declare my affiliation with an extremely unpopular cause.”




『知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、
さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。』 ・・・・ かつて知識人が育んだのは、生まれながらの貴族という考え方であり、 「旧き良き」時代への承継であり、上流階級の高級文化であった。いっぽう わたしが考える知識人は、可能な限り幅広い大衆にうったえかける者であり、 大衆を糾弾するものではない。 
・・・・ インサイダーは特殊な利害に奉仕す
る。だが知識人は、国粋的
民族主義に対して、同業組合的集団思考に対して、階級意識に対して、
白人・
男性優位主義に対して、異議申し立てをする者となるべきである。




ンダによれば、知識人が真の知識人といえるのは、形而上的で高尚な理念に
衝き動かされつつ、公正無私な、真実と正義の原則にのっとって、腐敗を
糾弾し、弱気を助け、欠陥のある抑圧的な権威に挑みかかるときなのだ。


わたしにとってなにより重要な事実は、知識人が、公衆に向けて、あるいは
公衆になり代わって、メッセージとなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、

意見なりを、表象=代弁(represent) し肉付けし明晰に言語化できる能力
にめぐまれた個人であるということだ。このような個人になるにはそれなりの
覚悟がいる。つまり、眉をひそめられそうな問題でも公的な場でとりあげ
なければならないし、正統思想やドグマをうみだすのではなく正統思想やドグマと

対決しなければならないし、政府や企業に容易にまるめこまれたりしない
人間になって、みずからの存在意義を、日頃忘れ去られていたり厄介払い

されている人々や問題を represent することにみいださなければならないのだ。
知識人は、こうしたことを普遍性の原則にのっとっておこなう。ここでいう
普遍性の原則とは、以下のことをいう。あらゆる人間は、自由や公正に
関して世俗権力や国家から適正なふるまいを要求できる権利を持つこと。
そして意図的であれ、不注意であれ、こうしたふるまいの規準が無視される
ならば、そのような審判行為には断固
抗議し、勇気を持って闘わねばならない
ということである。


しかし、かといって、ただ公
的なだけの知識人というものも存在しない。
つねに個人的な曲解があり、私的な感性が存在する。また、聴衆に迎合する
だけの知識人というものは、そもそも存在してはならない。知識人の語ることは、
総じて、聴衆を困惑させたり、聴衆の気持ちを逆なでしたり、さらには不快で
あったりすべきなのだ




わたしが使う意味でいう知識人とは、その根底において、けっして調停者でも
なければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間で
ある。つまり、安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ人間であり、
なかんずく権力の側にある者や伝統の側にある者が語ったり、行ったりしていることを

検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である。
ただたんに受け身のかたちで、だだをこねるのではない。積極的に批判を公的な

場で口にするのである。

いいかえるなら、知識人の使命とは、つねに努力すること、それも、どこまでいっても
きりのない、またいつまでも終わらない努力をつづけるということだ。
けれども、知識人の使命にまつわるこうした奮闘努力と複雑さは、たとえ、使命を
まっとうしたからといって、とりわけ人から好かれる人物になることはないにしても、
少なくとも私にとっては、知識人の使命をいっそう豊かなものにしてくれる要因なので
ある。


アマチュアリズムとは、文字どおりの意味を言えば、利益とか利害に、もしくは
狭量な専門的観点にしば
られることなく、憂慮とか愛着によって動機付けられる
活動のことである。  現代の知識人はアマチュアたるべきである。




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